アムステルダム市長、マルク人移住75周年に政府謝罪を要求――果たされなかった約束の重さ
約1万2500人が到着したヤファカーデで記念式典、仮設モニュメントも除幕
アムステルダム東部の旧港湾地区・ヤファカーデで先週、旧オランダ植民地軍(KNIL)兵士とその家族のオランダ移住75周年を記念する式典が開かれた。1950年代初頭、モルッカ諸島(現インドネシア)から11隻の船に乗り込んだ約1万2500人がこの地に降り立ってから、四半世紀が三度過ぎた。式典ではアムステルダム市長フェムケ・ハルセマが登壇し、オランダ政府に公式謝罪を求める声明を発表。当時の11隻の船名を刻んだ仮設モニュメントも除幕された。
「六か月で帰国できる」——果たされなかった約束
モルッカ人兵士たちは、インドネシア独立戦争(1945〜49年)でオランダ側として戦ったKNILの職業軍人だった。オランダが敗北すると、彼らはインドネシア政府から協力者とみなされ、安全に帰国できなくなった。独立を宣言していた南モルッカ共和国もジャカルタに制圧され、拠り所を失った人々はオランダに「一時保護」として受け入れられた。滞在は六か月の予定だったという。
しかし現実は約束と大きくかけ離れていた。到着後、兵士たちはオランダ軍から一方的に除隊させられ、家族は旧軍の兵舎や戦時中に使われた収容施設へと送られた。ハルセマ市長は式典でこう述べた。「多くのモルッカ人にとって、オランダは帰路における不本意な停車駅であり続けています。収容所にいた頃も、後にモルッカ人居住区に移ってからも、荷造りされたトランクは常に帰還に備えて用意されていた」。
世代を超えた傷、そして謝罪をめぐる複雑な感情
帰国の見通しが立たないまま時が流れた。やがてその鬱積は、オランダ生まれの二世・三世の若者たちへと受け継がれ、1975年のワイスター、1977年のデ・プントにおける列車ハイジャック事件、そしてボーフェンスミルデの小学校占拠事件へとつながっていく。ハルセマ市長はこれを「1970年代の悲劇的な暴力の escalation(エスカレーション)」と表現し、未解決の約束がいかに世代をまたいだ傷を残したかを改めて示した。1977年の事件当時、司法大臣として軍による強行突入を命じた故ドリース・ファン・アフト元首相は、生前に国王へモルッカ系住民への謝罪を私的に促していたとも伝えられる。
市長は「特に第一世代がまだ存命のうちに」と謝罪の速やかな実現を強調した。一方で、放送局NOSの取材に応じたあるモルッカ系の子孫は「実現しないまま時間ばかり過ぎるから、もういいと思う。別のかたちで自分たちを認め合う方法を見つけるだけ」と語り、謝罪への期待よりも自らのアイデンティティの確立を優先する姿勢を示した。
オランダ社会に残された宿題
オランダ政府はこれまで、植民地支配や独立戦争時の暴力については一定の謝罪を表明してきた。しかしKNIL兵士とその家族への対応に特化した正式な謝罪はまだ行われていない。在蘭日本人には直接かかわりの薄いテーマに見えるかもしれないが、移民・難民の受け入れと国家の責任をめぐる議論は、今日のオランダ政治においても常に底流にある問いだ。75年という節目に、ヤファカーデに立つ仮設モニュメントが静かに問いかける——あの約束の答えを、誰がいつ出すのか。
情報源: DutchNews
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